2010年02月15日

坂本龍馬が不況を救う?

 今まさに坂本龍馬ブーム。それはNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映によるものが大きい。この龍馬ブームによる経済効果は234億円と言われる。龍馬像が立つ桂浜には、休日には例年に比べ倍以上の人が訪れ、坂本龍馬記念館の入場者数は昨年の5倍以上だとか。
 また、ある喫茶店では、龍馬の似顔絵が浮かぶコーヒー「龍馬ラテ」860円を売り出すと、1時間待ちが出るほどの人気だと言う。


 県内人口が減り、過疎化の進む高知県にあっては、まさに龍馬・様・様といったところではないだろうか。歴史に残る金融不況の中にあってリーダー的存在の出現を期待する声が高まり、それが龍馬像とダブって、混沌とした時代をまとめたヒーロー「坂本龍馬」ブームの火付けになったのかもしれない。


 私は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで以来、すっかり竜馬に魅せられ、今では全巻5度も読み直し、書斎には竜馬関係の本が多く並ぶ。学生時代には、京都の寺田屋や龍馬の墓を訪れ、墓前で杯を酌み交わしたこともある。それくらいの熱烈な竜馬ファンでもある。
龍馬の肖像画を見ると、すずしい目に、ぼさぼさの蓬髪。よれよれの木綿服にブーツという奇抜な格好。自分でも「土佐の芋堀り」というように、土の臭いにおいのするところが庶民的で親しみを抱かせる。


 龍馬は土佐の郷士出身。郷士とは、戦国時代の長宋我部家支配下の一領具足層を言い、山内一豊支配下の家臣の上士とは同じ藩士といっても、差別され、対立関係にあった。上士と通りでハチ合わせると、道を譲り、上士が通り過ぎるまで頭を下げていたという。
幕末には土佐郷士の多くが、尊王攘夷運動に身を投じている。虐げられた者の底力が結集して彼らの過激さを引き出したのだろうか。


 龍馬と言えば、当時犬猿の仲であった薩摩と長州の連合を仲介大政奉還の画策船中八策(これは五箇条のご誓文の原案となった)の起案など、維新に果たした役割は数しれない。


 彼の目は「藩」とか「国」を越えて「世界」を見ていた。今で言うグローバルな視点があった。それが日本最初の商社機能を持つカンパニー、亀山社中そして海援隊を結成させることにつながる。世界を見つめる龍馬には行動力と時代を先取りした先見性、天稟の才能があった。


 彼は西郷隆盛のように受身でなく、自分自身で飛び込んでいって、自分の望む方向へ情勢を動かす攻め形のタイプだっただけに、時代が彼の出現を求めていたのかもしれない。


 また、龍馬はその人生で、開明進歩の人たちと出会い、自分を成長させていった。その一人が勝海舟だ。幕臣の勝に初めて会った時、「奸物ならば斬る」つもりだったという。しかし、勝の高い次元の話に感銘して即弟子入りした。龍馬は「眼光鋭く怖い顔だったが、笑うととても愛嬌があり、人なつっこい」とか。それが、多くの人たちとの出会いを導き出した。
日本の近代化を夢見て、動乱の世を駆け抜けた坂本龍馬。33歳という若さで暗殺され、龍馬の構想した新しい時代を見ることなく散っていった。もし彼が生きていたら明治ももっと変わっていたに違いない。
そう思うと残念でならない。


 司馬遼太郎は『竜馬がいく』のあとがきで、
「竜馬だけが型破りである。この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちの中で、一人も類を見ない。日本史が坂本竜馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった。なぜなら天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか」
「日本史が記している『青春』の中で、世界のどの民族の前に出しても十分に共感をよぶに足りる青春は、坂本竜馬のそれしかない」と評している。


 私も、もう一度「竜馬がゆく」を読み返すことにする。

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