2009年03月13日

全盲の中学教師

 すごい教師がいた。網膜はく離で左右の眼の視力を失った新井淑則先生、46歳。驚いたことに、彼は盲導犬のマリーンとともに毎日、国語教師として普通中学の教壇に立っている。チョークを使い黒板に文字をきちんと書いている姿にはもっと驚かされた。
 
  新井先生は、埼玉県長瀞町(ながとろ)の長瀞中学に勤務している。彼は、大学卒業とともに念願の国語教師となり、サッカーの顧問として生徒と毎日グランドで汗を流していた。教師になって4年目の88年、左目が網膜はく離になり失明、やがて右目にも発症して95年にはすべての光を失った。

 
 「目が見えないのに何ができるんだ」学校も休職し、自宅にこもり、自暴自棄の生活が続いた。家の自室のカベには、くやしさのあまりこぶしで何度となくたたいた後が今も残っている。それは彼の苦悩をそのまま表していた。こんな新井さんの姿に、同じ中学教師であった妻の真弓さんは、さまざまな分野で活躍する視覚障害者の情報を集めまわったという。その中に普通高校で教える視覚障害者がいた。

 
 「自分にもできるかもしれない」彼は勇を鼓してリハビリに励んだ。点字も必死で覚えた。そのかいあり99年には養護学校に復職し、盲学校でも教えた。しかし、彼の望みは「普通中学の教壇に復帰すること。視覚障害者の教師として生きざまを生徒にぶつけてみたい」日増しにその思いは募った。

 
 新井さんは講演活動などで自分の熱い思いを伝え、ついに長瀞町(ながとろ)の町長の誘いにより、15年ぶりに普通中学への復職を果たした。

 
 しかし、視覚障害者の教師が勤務するとなると、どうしても補助教員が必要となる。これには多くの予算がかかるが、長瀞町や地域の人々そして生徒の協力によって受け入れ態勢は万全となった。
 授業は点訳教科書を使って行う。生徒の表情がみえないため、テープレコーダーに生徒の名前と声を吹き込んでもらい、生徒の机の裏には点字テープを貼り付け名前を覚えた。


 校内では、生徒、教職員全員がすれ違う時、声を出してあいさつをする。階段、段差のあるところでは点字ブロックが敷かれた。職員室の横には新井先生のための準備室がある。そこには点訳された教科書が並ぶ。ボランテイアの人が週1回点訳、朗読に学校を訪れる。
  

 長瀞中学には、四人の国語教師が交代で、新井先生をバックアップするチームテイーチング方式を採用している。授業は新井先生が進行させ、補助教師が挙手した生徒の名を伝える。なんとすばらしい学校だろうか。なんとすばらしい生徒だろうか。なんとすばらしい教師集団ではないか。


 新井先生は言います。 「できないと思えば、絶対できない。できると信じれば、絶対にできる」まずは、自分が信念を持って努力をすること。そして、周囲の助けに支えられていることを知り、感謝すること。それが、見えないからこそ見えた」
 
著作「全盲先生泣いて笑っていっぱい生きる」では、「弱虫でも、どん底でも、必ず夢は叶う」と私たちに熱いメッセージを送ってくれた。

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