2008年10月06日

感動をありがとう! 清原和博選手

 プロ野球オリックスの清原選手が、23年間の現役生活にピリオドを打った。PL学園時代は1年から4番バッター、桑田とのKKコンビで5期連続の甲子園出場を果たし、甲子園では13本塁打を放ち、「怪物」と呼ばれた。私は、当時の清原が流して甲子園のライトスタンドに放り込むパワーにド肝をぬかれたものだった。
 

 しかし、その年のドラフト会議では、巨人入りを熱望していたが、裏切られて指名されず『くやし涙』、その巨人との日本シリーズでは、優勝が決まろうとする時、試合中にもかかわらず、感極まってファストベース上で『涙』、そして、引退試合での『男泣き』。彼にはいつも『涙』がついてまわったように思える。
 

 その後FAであこがれの巨人に入団、しかし太りすぎもあり、晩年はケガに悩まされ続けた。私は巨人フアンだが、正直言って清原選手には巨人に入って欲しくなかった。むしろ阪神に入って反巨人の先兵として闘って欲しかった。


 巨人に入った清原は清原らしさを失っていたように思える。事実、数字上はほとんど活躍らしい活躍はしていない。しかし、彼は記録よりも記憶に残る選手だった。「無冠の帝王」と言われながら、歴代最多のサヨナラ安打20本、サヨナラ本塁打12本を記録するなど無類の勝負強さを発揮した。  また、通算1955三振・196死四球は、あまりほめられた記録ではないが、打席を投手との決闘の場に持ち込んだ清原らしい記録であり、ある意味勲章でもある。

 
 彼の男気にほれこみ、チームの勝ち負けでなく、清原個人に挑んでいく投手も多くいた。当時近鉄の野茂、ロッテの伊良部は150キロを越す直球のみで真っ向勝負をし、息飲むシーンを多く見せてくれた。目いっぱい投球する野茂、伊良部、フルスイングする清原、まさに「これぞプロの対決!」だった。巨人在籍中の日本シリーズでは、当時西武の松坂も直球勝負を挑み、150メートルの大ホームランを打たれたことは脳裏に焼きついている。
 
  
 引退試合前、王監督から『生まれ変わったら必ず同じチームでやろう』という言葉をもらった。皮肉にもドラフト当時の指揮官が王監督であったことも何か因縁めいている。


 長渕剛は清原のトレードマークとなっている「とんぼ」を熱唱。「和博は俺の書く歌に力をもらった。やつのような強者を目指すものが聞き続けてくれたことで、『歌は力なり』を証明してもらえた。本当に感謝しているよ」と言う長渕の言葉もまた感動的だった。


 「スーパースターは人をつくる」と言われるように、引退試合には、イチローや阪神の金本選手、かっての同僚桑田など多くの友人も大阪ドームにかけつけ、彼の幅広く,深い人間関係をうかがい知ることができたた。


 王監督・野茂・桑田についで清原の引退、プロ野球の大きな支えを失ったようでさびしい限りだ。引退試合が華やかであったことが余計寂しさを感じさせる。


 そこで提案なのだが、WBCの打撃コーチかヘッドコーチに清原というのはどうだろうか。彼以上のカンフル剤は無いと思うのだが。

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