2013年04月09日

清掃員からの手紙と掃除

 1月末、埼玉・毛呂山町の川角中学校に1通の手紙が届けられた。それは東海道新幹線の車内清掃員からの感謝の手紙だった。
 手紙には「貴校の普段の教育ならびに引率教員の方の行き届いた指導を、生徒の皆さまがよく理解され、大変きれいにご利用いただき、感激した」と書かれていた。


 川角中学校2年生123人は1月20日から22日まで2泊3日の日程で、京都・奈良に修学旅行した。最終日の22日は清水寺などを見学した後、京都駅から午後1時6分発の「のぞみ」に乗車。同3時23分に東京駅に到着した。
 生徒らは東京駅で降車する際、用意したごみ袋にごみを入れ、椅子は元に戻すとともに、ヘッドカバーを張り直し、床に落ちたお菓子などのごみを拾った。ごみ袋はまとめて車両の出入り口脇に集めた。


 新幹線の清掃員は、到着から出発までのわずかな間に車内の掃除を済ませる、「清掃のプロ」である。1両を2人で担当し、わずか8分で全ての清掃を終えるという。これは神業ともいえる職人技で、アメリカのCNNも取材に訪れたことがあるくらいだ。車内にごみを一つも残さなかった生徒たちの行動は、そんな「すご腕清掃員」の心を打ったのだった。


 私は「なぜそうじをすると人生が変わるのか?」という本をちょうど読み終えたところだった。
 主人公はサラリーマン。ある日公園でゴミ拾いをする老人と出会った。その老人は70歳をとうに超えていたが、イングランド風のスーツをパリッと着こなした紳士だった。右手に軍手をはめ、左手には2つのゴミ袋を持ち、空き缶とその他のゴミを分別しながら、黙々とゴミを拾い集めていた。


 サラリーマンは「そうじをすると会社の利益があがるのか? お金が手に入るのか?」という現実主義者で、掃除の重要性をあまり持っていない青年。
勇気を出して、その老人に「どうして毎日掃除をされるんですか」と聞いてみた。老人は「実はそうじをすると得することがあるんじゃな」「それは拾った人だけがわかるんじゃよ」と答えた。


 サラリーマンはその言葉が毎日頭の中でグルグル回っていた、そんなある日、歩いているとコーンと足元に何かが当たった。それは空き缶だった。「この空き缶どうしよう」無意識にあたりをキョキョロ見回した。誰かに見られていないかと思ったのだ。
ふと気づくと幼稚園の窓に若い先生の姿が見えた。気のせいかもしれないが、どうもこちらを見ているような気がする。「いかん、いかん」これをどこかに捨てなければ。
小走りに5メートル先の酒屋さんまで駆けた。そして自動販売機の横にある「缶入れ」にほおりこんだ。」
この小さな行為がサラリーマンを変えることになる。


 翌朝、公園でゴミ拾いをする老人に空き缶を拾っても何も変わらなかったことを言うと、老人は「拾うと何かが自分の中で起こる。何かが変わる。その何かは拾った人だけがわかる」と謎めいたことを言った。更に「ごみを一つ捨てるものは、大切な何かを一つ捨てている。ゴミを一つ拾うものは、大切な何かを一つ拾っている」と言った。


 それからというものサラリーマンは、毎朝30分早く会社に出勤して、作業場を掃除し始めた。確かにきれいにするとすごく気持ちがいい。そうじをしてきれいな1日をすごしてしまうと、そうじをしないで汚れたままでいるのが気持ちが悪い。


 商店街に出ると、あちらこちらに空き缶や菓子パンのビニール袋などのゴミが落ちている。今までも同じ光景を見ていたはずなのに、なぜ今まではゴミが落ちていたことに気づかなかったのだろう。事務所に戻ると軍手とゴミ袋を手に事務所の周りのゴミを拾い始めた。


 青年サラリーマンは全ては1から始まり、『0と1の差』はただ単に1ではなく、実はとてつもなく大きい。それこそ『0と1の差』は百も千も万も億違うということを身をもって知るのだった。


 掃除をすることはただ単に掃除をすることにとどまらない。そんな姿勢が自分を磨いてくれるのだ。いつしか私どもの塾では、講師が授業の終わった生徒の机の上をきれいに拭くことが定着した。これは強制されたものでなく講師の自発的な行為である。この行為が次にはどんな行為に展開していくのか楽しみだ。