2009年10月31日

ありがとうノムさん

 東北楽天イーグルスの野村克也監督のぼやきはもう聞けない。あのベンチでドッカと構える姿がもう見られないとなると、何か寂しい。あのぼやきは勝つにつけ、負けるにつけ面白かった。彼のぼやきには辛辣な言葉も多くあったが、その裏には『野球愛』『選手愛』があった。つまり『情』のあるぼやきだった。その『情』を隠すため、彼はさかんに毒舌づいたのではないだろうか。
  

 「ボヤキは永遠。勝ってはボヤキ、負けてはボヤキ。気持ちよく帰られる日はいつの日ぞ」


 選手時代は、ひまわりのような華やかな王・長嶋と違って、自分を日陰に咲く月見草に喩えた。監督になると、決して強いとはいえないチームを渡り歩き、チームの底上げをはかってきた。また、球団に見捨てられた選手を蘇らせ、野村再生工場ともいわれた。
 

 「お前、クビになって悔しかったやろ。じゃ見返してみろ。心が変われば人生も変わるで。」

昭和の香りのする最後の名将とも言える。
 

 野村さんは日本プロ野球界に多くのことを導入した。クイックモーションもその一つだ。捕手という視点から、当時の盗塁王福本豊の盗塁を阻止するために考え出したものだった。また、いちはやく投手の分業制も取り入れ、リリーフ投手は先発に劣るという従来の考えを否定し、阪神を放出された江夏豊を南海ではストッパーに起用し、見事蘇らせた。


 ID野球は彼の代名詞ともなっているが、データを徹底分析し、野球を読んだ。ヤクルト時代には、「プロ野球選手は野球博士であれ」と、監督就任間もない頃に野球規則のテストを行ったことがある。
『プロ野球界に革命を起こす』これが彼の信念だった。
 
 象徴的だったのは、クライマックスシリーズに敗れ、引退が確定的となった野村さんを両チームの選手が胴上げしたシーンだ。5度も宙に舞った野村さんは涙を見せることもなく、球場を去った。年齢的にもユニフォームを着るのは最後だろう。テレビで見る後姿は寂しそうだった。

  「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり」 

 最後は日本ハムに負けて花道は飾れなかったけれど、
    「チームとしてはこれでよかったんじゃないか。段階を踏んでいった方がいい。
      ビッグゲームで負けて得られるものもある。負けた方が真剣に反省する。」

 野村さんらしい言葉を残して、監督生活に終止符をうった。


ありがとうノムさん。

お疲れさんノムさん。

今は親しみを込めてそう言いたい。

2009年10月26日

言葉は力

 東北楽天イーグルスの監督だった野村克也氏には含蓄ある言葉が多い。パリーグの優勝を決めるクライマッスシリーズ(CS)の第1ステージの第2戦で、無四球完封で勝利に貢献した田中将大投手に発したのは「横着を覚えたな」いう言葉だった。


 それは、完投を考えてペースを刻む田中投手に、「若いおまえは、ペースを考えて投げるのはまだはやい。もっとがむしゃらに投げろ」と言わんばかりであった。
 しかし、言われた方も監督の意を心得ている。「三流は無視、二流は称賛、一流は非難」という普段から言われている言葉を覚えているからだ。
 

 私は高校野球の監督を十数年務めたことがあったが、選手を練習や練習試合では決してほめることはしなかった。(若い頃は血気盛んであったが、これは35歳超えての話である)それどころか徹底して叱った。叱られるそういうプレッシャーを感じながらプレーをしないと本当の力は身につかない。プレッシャーに打ち克ってこそ本物の力が身につく。
 

 また、勝った試合の後もよく選手を叱った。勝った試合の後の選手は、気分もよく実に言うことをよく聞く。従って叱った効果も倍増するのである。 逆に負けた試合の後はいっさい叱ることをしなかった。試合に負けて落ち込んでいる選手に多くを言っても効果はない。そう思ったからだった。

 
 しかし、本大会ではまったく叱ることはしなかった。選手が存分に力を発揮するように、ベンチでドンと構えていた。この指導法が功を奏してか、強豪ひしめく兵庫県大会では、県立高校でありながらベスト8に二度も入ることが出来た。
 
 私は一度だけ選手を試したことがある、格下と思われるチームに惨敗をした時は、怒りが爆発した。
試合に負けたことで怒ったのでなく、試合前から相手をなめたような態度が見え、 高校生らしい謙虚さが微塵もなかったからだった。試合後、「負けるべくして負けた」と部員に告げ、帰りは罰として走って学校まで帰るように命じた。
  
 1時間半後、息をはずませ、学校まで約20キロの道のりを部員全員が走って帰ってきた。でもおかしい、20キロの道のりを1時間半で全員が帰ってこれるはずがない。

 
 「おまえら、まさか誰かの車に乗せてもらって帰ったわけじゃないだろうな」この言葉に、部員はいっせいに憤怒はちきれんばかりに私を睨みつけた。それを見ていると、どうやら全員が本当に走って帰ってきたらしい。しかし、おかしい。私が不思議そうな顔をしていると、キャプテンが一言「近道を通って帰ってきたので、半分の距離ですみました」皆が大爆笑。

 その後、私は少しでも部員を疑ったことを謝り、それから、私がなぜこんなことをさせたのか懇々と言って聞かせた。 その時から部員との絆は一層深まったように思う。 


 「礼儀正しさ」「素直さ」「謙虚さ」はその後、部訓となった。ただ単に野球をするだけでは駄目だ。野球する姿勢が日常生活にも生きていないとそれは本当の野球ではない。 『野球を通じての人間形成』まさにそれだった。   
  この教え子たちも、すでにアラフォー。 子供たちに野球やソフトボールを教える年代になった。「礼儀正しさ」「素直さ」「謙虚さ」は次世代に受け継がれ、エネルギーを注ぎ込む力となっている。     

2009年10月16日

恐るべき二十歳、内村航平

  ロンドンで行われていた世界体操選手権で、内村航平(20)選手が個人総合で日本人最年少優勝を果たした。それも2位に2.575点の大差をつけてのぶっちぎりの優勝だった。彼の優勝の弁は「出来には満足していないが、粘り強くやれたから好結果につながったと思う。努力が無駄にならなくてよかった」。
 

 最終種目の鉄棒、彼はそれまで2位以下に大差をつけており、無難にこなせば金メダルは手中にできたのに最後まで攻め続け、コバチなどのE難度の離れ技にトライし、そのすべてを完璧なまでに決めた。着地は少し乱れたものの若者らしいすがすがしい勝ち方だった。
 

 しかし、すべてが完璧なわけではなかった。平行棒は演技渋滞の大失敗で全体の12位。床運動も着地に失敗した。彼の美学は着地を決めることだと言う。しかしその着地に失敗しても、試合の一つの過程としてとらえ、自分のミスは残りの種目で帳消しにした。


 彼は体操の経験のある両親のもと生まれ、「平成の時代を真っ直ぐに渡れるように」という願いを込めて、『航平』と命名された。
また、極端な野菜嫌いで、野菜を思わせる緑色も嫌いだとか。好きな食べ物は、バナナとチョコレート。体操選手でありながら、体育が大の苦手で、中・高校時代の成績は5段階評価で「3」だった。現在、日体大に在籍している彼は、球技などの実技の単位をとるのに悪戦苦闘しているという。今風の若者らしい。


 こんな平凡な彼が優勝できたのは、得意種目の床運動と跳馬をとことん伸ばして、不得意種目を補ってきたことだ。彼は小さいころからトランポリンに親しんでおり、小学校高学年の時にはすでにひねり技を身につけていた。

 彼の安定した着地は得意なトランポリンを通じて得たものだという。彼は「トランポリンから見る景色を楽しむ」と言うが、それが演技の時の飄々というか楽しんでいる感じを私たちにさせるのだろう。


 好きなことを突きつめるまでとことんやれば道は見えてくる。彼がその範を示しているようだ。これは「得意科目をどんどん伸ばせ」という我々の指導に通じるものがある。
難しさと美しさを体操で追求する内村航平、恐るべき20歳である。でも彼は私たちの手の届かない天才ではない。凡人であるがゆえに感動し、凡人であるがゆえに親しみを感じるのだ。


 彼がいる限り体操日本の夜明けは近い。わたしはそう確信する。

 
 これを書いている時、吉報が入ってきた。同じ二十歳の井山裕太が、囲碁名人戦を制して史上最年少の名人になった。日本の若者もまだまだすてたものじゃない。