2009年08月26日

史上最強の準優勝日本文理高校

 6点もの大差がつき、9回もツーアウト。誰もが中京大中京の勝利を確信した。しかし、ここからが甲子園の高校野球。日本文理は怒涛の反撃に出た。ヒットにヒットを重ね何と5連打、5点をもぎ取った。しかも、二死一.三塁、一打サヨナラのまさに胸がしめつけられるようなシーン。次の打者が放った鋭いライナーは三塁手の正面。抜けていれば…そう思わせる結末だった。
 
  「9回ツーアウトだからといってあきらめているやつはベンチにはいなかった。次につなげ、次につなげとベンチは押せ押せの大盛り上がりだった」と中村主将。 
 下馬評では、中京大中京が優勢だった。しかし全国最多の優勝を誇る強豪中京大中京に真正面からぶつかっていった敗者の彼らに涙はなく、まるで勝者のような笑顔が印象的だった。


 新潟県勢初の決勝戦進出、これだけで十分勝利者に等しいのに、まさに優勝者にふさわしいような戦いぶりで、史上最強の準優勝であった。
日本文理の大井道夫監督は、1959年の夏、宇都宮工業高校で準優勝投手だった。3連投の決勝戦は疲労のピークにあり、点滴をして決勝に臨んだという。愛媛の西条高校との対戦は、2−2から延長にもつれこんだが、15回に6点を奪われて力尽きた。
 

 開校3年目の新潟文理高校の監督を任されたのは45歳。13人の部員に野球経験者は半数もいなかった。用具は自腹で買い足し、校内ソフトボール大会を見てめぼしい人材を探した。選手は県外からの野球留学生を募るのではなく、地元主体の県民チームで構成した。 
 
  97年夏に初めて甲子園の土を踏んだ日本文理であったが、初戦、智弁和歌山に19失点と惨敗した。しかしその後甲子園に5回の出場。今までは3年前の春センバツのベスト8進出が最高だが、だんだんと全国的にもその名を知られるようになった。しかし、夏は一度も勝つことができなかった。


 センバツの1回戦で優勝した清峰高校に負けてからから、選手のみんなは自分に一日1000回の腹筋・背筋を課した。打撃練習では、強いゴロだけ打つことを考え、フライをあげることを禁じた。


 そのかいあり、チームは今大会全試合10本以上の安打を放った。また、大会史上初の2試合連続毎回安打を含む5試合連続2ケタ安打をマーク。5試合42イニング中、無安打に終わったのはわずかに4イニングだけという驚くべき強力打線が出来上がった。 

 
 中村主将は「これまでよく“おまえらは火縄銃”だと言われてきたけど、少しはマシンガンに近づけたかな。負けたけど最高の試合が最後にできて幸せ。胸を張って新潟に帰りたい」と語った。
大井道夫監督は、またしても優勝の夢を絶たれたが、「最後にオレの野球を見せてくれたよ。あの強い中京に田舎チームがよくやった。この年になって、こんな感激を味わえるなんて幸せだよ」
「こりゃ(監督を)やめられないな」67歳の情熱が萎えることはない。


日本文理ナインが甲子園にさわやかな風を吹かせた。


感動をありがとう日本文理ナイン!

2009年08月17日

宮里藍、悲願の米ツアー初優勝

 アメリカツアーのエビアン・マスターズで初優勝した瞬間、思わずサンバーザーで自分のうれし涙を隠した宮里藍ちゃん、イヤー本当によかった。
  
 彼女は日本ツアーではいとも簡単に高校3年で優勝を果たし、即プロ入り、すぐに賞金女王になり、鳴り物入りで米ツアーに本格参戦した。しかし、アメリカはそんなに甘くはなかった。距離の長いコース、それに洋芝でからみつくラフ、その上グリーンの難しさも日本の比ではなかった。それでも彼女の力からしたら、初優勝はそんなに遠くないだろうと私たちは考えていた。そんな重圧の中でのプレー、3年間は一度も勝つことができなかった。

 
 華やかに見える藍ちゃんも、実は順風満帆ではなかった。中学1年の時、全国中学校ゴルフ大会の沖縄予選で敗退し、九州大会にも進めなかった。しかし、これにもめげず、渡米アメリカの世界ジュニア大会に挑戦した。そして、見事5位に入ったのだ。
 この時の経験から「落ち込んだ時でも、夢に向かって前進する勇気と努力が大きな自信につながった」と彼女は語っている。
 
 『人はつまずきを肥やしにして大きくなる』そのつまずきの回数が多ければ多いいほど人は強くなる。これは高校時代の私の恩師言葉で、私の座右の銘でもある。
 なかなか勝てない藍ちゃんに対し、日本で世界一強い藍ちゃんとマスコミに酷評されたこともある。しかし、彼女はめげなかった。
 なんくるないさ、(どうにかなるさ)、ここで悩んでもしょうがない
 
 「意志あるところに道はある」彼女の座右の銘である。(静筋ゴルフ革命より)
自分がこうなりたい、達成したいという方向に向かって高い志を持とう。進むべき方向がはっきりしてくれば、そこにどう辿りつけるのかが自然と見えてくるし、必死になって何をすればよいかを考えるようになる。進みたい方向をしっかり見なければたどり着くことも困難になってしまう。
  

 アメリカでの長かった試練を、夢に向かって進む勇気と努力で乗り越えた。一皮向けた彼女は一回り大きな人間となって、私たちの期待に答え、自分の夢を実現してくれるものと確信している。
  
「藍」という名は、父親が辞書で調べると、「藍」という文字は最初に出てくる名前で、トップがとれるようにとの意味が込められているという。

「自分をコントロールできた」初優勝の後の彼女の言葉である。この言葉は、ひとつの壁を乗り越えた自信の表れでもある。彼女の今後の戦いが大いに楽しみでもある。
 
 がんばれ!!藍ちゃん
 トップをとれ!!藍ちゃん

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