2009年05月27日

この苦難をバネに!

 電話の向こうから元気な声が返ってきた。「大変なことだが、頑張っている。神戸の大震災を経験しているから、今度の新型インフルエンザによるショックにも耐えることができるよ。」長年親交のある神戸の塾長さんだった。
 

 新型インフルエンザは関西では、大阪・兵庫、兵庫では特に神戸を中心に広がりをみせてみた。感染の状況は一時に比べ、やや落ち着いた感はあるものの、いまだ広がりを続けている。この間、日本中はまるで悪性の病気でも流行ったかのような騒ぎようで、マスコミにいたっては、新型インフルエンザ狂奏曲そのものだった。 


 かって経験したことのない新型インフルエンザの流行に、危機感をもつことはもちろん必要なことだが、日本は諸外国に比べて対策が大げさなように思う。現に日本より先に新型インフルエンザが伝染したアメリカでは、空港などでの検疫とか、マスク着用などもなく、ましてやコンサートなどのイベントを中止するなどのこともなかった。


 これに対して、日本は必要以上に敏感で、政府の公立学校休校要請やイベントの中止など、百年に一度の不況などと言いながら、経済活動を政府主導でストップさせている。

その一方で、休校となった高校生たちは暇をもてあそび、カラオケボックスに殺到、カラオケボックスは大繁盛するという皮肉な結果を招いている。しかし、カラオケボックスのような密室で、しかも他人のツバキがついたようなマイクをまわして歌うことは、大きな感染原因となることは誰でもわかるはずだ。これに対しての具体的指導がない。カラオケボックス側の判断で休校している学校の生徒は入場を断るようになったというが、徹底できるはずもない。


 新型インフルエンザを封じ込めようとするなら、やるべきことはもっとある。危機に対する反応の仕方がいかにも日本人的で非科学的である。
マスクの着用にしても、感染している本人がするには効果があるが、かかっていない人がマスクを着用してもほとんど効果がないということははっきりしている。ウイルスは人の目やこめかみやほほなどから進入してくる。日本では百人一色の様相だ。おかげでマスクは品切れで価格はつり上げられ、インターネットでは10〜20倍近くの価格になっているという。


 その中での元気な電話の声に逆に勇気づけられた。その塾長さんは更に「この新型インフルエンザを契機に、普段から安穏としていた職員に危機感が生じ、それが逆に職員の結束を高める結果となった。」と言われた。

 感染源である当該校が学区にあるため、塾の2週間にわたろうとする臨時休校という痛手、それに数多くある教室を業者に頼んで消毒殺菌をしたことによる多大な出費、経済的にも大ピンチであることは想像できる。
私には「頑張ってください」としか発する言葉はないが、この塾は今回のことを通じて更に進化発展されることと確信している。

2009年05月01日

最高裁、先生の行為を体罰と認めず

02年11月熊本県の小学校。臨時教師が、校内の廊下で女子児童を蹴っていた男児らを注意、職員室に戻ろうとしたところ、その生徒に尻を蹴られたため、追いかけて生徒の胸ぐらをつかんで壁に押しつけ「もうすんなよ」と大声で叱った。この生徒はその後、夜中に泣き叫ぶようになり、食欲も低下した。「教師の行為はまるでけんかで、恐怖心を与えるだけだった」これが原告の言い分である。
 

 教師の行為が体罰に当たるかどうかで最高裁が判断を下した。判決によれば教師の行為について「悪ふざけしないように男児を指導するためで、罰として肉体的苦痛を与えるためではなかった」「行為は教育的指導の範囲を逸脱しておらず、体罰ではない」と認定し、体罰を認定して市に賠償を命じた1、2審判決を破棄し、原告の男児の請求を棄却した。
                          (読売新聞4月28日付夕刊)
 

 これは教師による「力の行使」を限定的に認めた画期的な判決と言える。教師が学校で生徒に暴力を振るわれたケースは、07年で約7000件にも達する。確かにこれは異常な数字である。


 小さい頃ガキ大将の私は、先生によく叱られ、よく殴られた。先生の存在は絶対で、本当に怖かった。学校で先生に叱られたことを親に言うと、「先生に叱られるとは何事だ」とまた叱られ、殴られたものだった。私たちの世代は、痛みを知ることによってしてはいけないこと、守るべきルールを思い知らされた。


 今や学校において生徒と教師の力関係は逆転している。モンスターペアレンツといわれる義務を果たさず権利だけを大仰に主張する保護者。授業中に騒いだ児童を廊下に立たせることは体罰や人権侵害だと批判され、授業中にメールをしていた生徒から携帯電話を取り上げただけで抗議を受けることもあるという。


 学校教育法では体罰が禁止され、これが足かせとなって教師は子どもの問題行動に対し萎縮し、毅然とした指導ができなくなっている現状がある。今回の判決は厳しい生徒指導をためらう教育現場の実情に配慮したものだと言える。


 マスコミも弱者とされる生徒の味方で、体罰問題があるとあたかも大事件が発生したごとく大々的に書き立てる。確かに私情丸出しで生徒を怒る教師はおり、それは教育の名に値しない暴力だと思う。しかし、すべてがそうでないだろう。


 私の知人の中学校教諭は、クラブ活動中生徒に金属バットで殴られ、大ケガをし、救急車で病院に搬送されたこともあったが、これについてあまり報道されていない。書かれてもあたかもその教諭が悪いかのような報道のされようだった。
先生が主導権をもって生徒の指導にあたらないと、学校はもう学校でなくなる。


 イギリスなどの欧米各国では、幼児が触ってはいけない物(マッチ・ライター・タバコ・刃物などの家庭内にありふれた危険物)を玩具にしていたら、手の甲を赤くなるほど平手で殴ってから、「もう触りません」と言わせるしつけが伝統的に存在した。


 データーを見ても、しつけとして軽度の体罰を受けたとする者は、体罰を一度も受けなかったとするものよりも犯罪歴が低く、学歴、収入が高いとの結果も出ている。つまり軽度の体罰を受けた者は、善悪の判断がきちんとできて社会的常識が身につき、他人の痛みがわかるようになるということになる。


 私は体罰推進論者ではないが、適度の教育的スキンシップは必要だと思う。ただ、07年度には、体罰で懲戒や訓告、諭旨免職処分となった教員は、371人もいるというデーターを見ておかねばならない。客観的に見て教員の鬱憤晴らしや暴力としか見られないような行為もあることも確かだ。しかし、生徒の教師に対する暴力7000件と比べると、10分の1にも満たないのである。


 マスコミは年間7000件もある生徒の教師に対する暴力を取り上げることは少なく、教師の生徒に対する暴力は仰々しく書き立てる。これが生徒を増長させる一因にもなっている。生徒に少しでもさわろうものなら「暴力や」「教育委員会に言ったろか」こんな言葉が平気で学校現場では飛び交っている。こんなことから生徒に反社会的な行為あっても見て見ぬ振りを決め込む公務員然とした教員が増えてきた。出る杭は打たれるため、出ない杭に決め込んでいるのである。


 今回の判決にしても、読売新聞は夕刊の第一面に書かれていたが、朝日にいたっては、社会面でのほんの小さな記事に過ぎなかった。

 その意味でも、今回の判決は教育現場の先生に勇気を与えた判決ではないか思う。

続きはこちら

過去のエントリー